百姓日記

百姓をやるために田舎で生活しています。

生きるハードルを下げよう

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土に触れていると、悩みがすっと消えていく。消滅するわけではないけど、「そんなことはどうでもいいや」となれる。鍬を振り下ろしていると、その時々のことを考える。黙って足を組んで考えても良いアイディアはでないけど、鍬を使うと創造的になれる。私が実践していることは難しいことではない。誰でも気軽に取り組むことができる。

何かをするときに不安はつきものだ。不安は行き過ぎたときのブレーキとなる。不安がないと危ない。しかし、不安が強いと何もできなくなってしまう。強すぎる不安は、心身に影響を与え、思うような生活がおくれないことになる。

溢れる情報は人の不安を強化する。過剰な成功体験か行き過ぎた失敗体験が氾濫していて、まともな判断をすることが簡単ではない。テレビや新聞だけではなくネットの情報も惑わす。だから、我々の社会に不安しかないような錯覚に陥る。

希望も同じだ。安易な希望が情報として流れ、自分の意志とは別の考えや行動をさせる。

幻想的な不安と希望が蔓延する理由の原因は「商業主義」だろう。消費をすればいい消費だけが善だと小さい時から教え込まれる。商業主義は、生きるハードルを上げているだけではないかな。欲しい物がある(錯覚させる)→金を稼ぐ→欲しい物を手に入れ満足する→一時の満足で終わりまた欲しいものを手にいれるために金を稼ぐ。この繰り返しだ。格差が露骨になり、ますます広がっていくのに、消費を軸にすると生きるのがしんどくなる。特に「負け組」になると辛い。

私は消費に興味がないのであるもので十分だし、何か物が欲しいと思うことはない。商業主義から降りているので勝つこともないし負けることもない。言い訳に聞こえるかもしれないが、勝ちもなく負けもなければ自分の意志で淡々と生きていけるではないですか。勝負から降りても受け皿が少なく、認められないから降りるのを躊躇するのだろう。でも確実に降りる人は増殖している。加藤嘉一の『われ日本海の橋とならん』に登場する、仕事も金もないけど時間だけはある、中国の「暇人」のような多様な生き方ができるようになってきたのは喜ばしい。

生きることは困難で難しいというアナウンスではなくて、最低限の生きるハードルは簡単に保障されるようなことをしていけばいいのではないかな。2択ではなく中庸な部分を増やしていくということ。