百姓日記

百姓をやるために田舎で生活しています。

筋を通す生き方と論理的な生き方

田舎は、Uターン、Iターン、地元志向で地元で長年生活している人たちに、おおむね分類される。3つの層は、同じ生活圏にいながら、まったく違う時間を過ごしている人たちがいる。Iターンはある程度知的好奇心があって、Uターンは自分の田舎をどうにかしたいと思っていて、地元志向は現状に満足し保守的とカテゴライズできるかと言われれば違う。

どの層にも「筋を通す」ことを優先する生き方と「論理的な」ことを優先する人がいる。どういうことか。

「筋を通す」生き方というのは、ヤンキー的な生き方といえる。

ヤンキー的なものは、上下関係を重んじ、保守的で、家族を重んじる生き方といえよう。中学、高校のときにいわゆる「DQN」の友達がいた。彼らは、仲間・先輩・後輩の関係性を重んじ、車やバイクに詳しく、クリスマスのときは自宅に仲間を呼び、パーティーを開き、家族も参加していた。思い出すと、仲間は何があってもかばい、守ってくれていたが、それ以外の人たちには極端に冷たかった。

ヤンキー的な友達がどうやって仲間をつくっていたのかといえば、「筋を通す」だったように思う。筋を通すとは、ヤンキー的な生き方を何よりも大事にすることだったと思う。筋が通っていない人は、魅力的な人でも仲間に入ることはできない。

一方、「論理的な」生き方は、フラットな関係を好み、革新的で、地縁・血縁を重要視していない生き方といえる。彼らは、年齢に関係なく優れた考え方・面白い考え方をする人物を評価する。「年上だから敬う」という関係は介在しない。

コミュニケーションは、個人をベースとしているので、べたべたした関係にはならない。自分を中心に物事を考え、ロジカルで知的な話しをする。

ヤンキー的な生き方と論理的な生き方は、対極にあるので交わることがない。交わっても、互いに健全な関係を構築することは難しい。ヤンキーが「お前は筋が通ってないんだよ!」と言っても、論理は論理的ではない考えだったら理解できない。逆に、論理が「○○はこうだ。だから××したほうが合理的だ」と言っても、ヤンキーは筋が通っていなければ聞く耳をもたない。

☆☆☆

衰退する田舎に必要なのは論理的な生き方を増やすことではないだろうか。オープンでゆるい関係でなければ閉鎖的なムラ社会と変わらない。田舎の人口が減少し都市に流出するのは、田舎のヤンキー的な閉鎖性と無関係ではないと思う。閉鎖性が心地よい人たちにとっては問題ないだろうが、「筋を通す」という言語化できないものは外部が理解するのは困難だから新しい価値は生れない。誰しもが生きやすい桃源郷はどの世界にも存在しないが、世の中が大きく変わろうとしているときに、内に籠って、自分たちにしか理解・共有できないものを続けるのはあまりにもリスクが高いと思う。

しかし、都市で生まれ育ち田舎での生活経験がない人のなかにも閉鎖性を伴ったヤンキー的な生き方の人がいるから、田舎固有の問題ではないのかもしれない。佐々木さんが紹介されていたブログに書かれているように・・・。