百姓日記

百姓をやるために田舎で生活しています。

損得関係なく雇われて働くことは無理だった

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「働く」ことは、資産家でない限り、避けて通れない。大人になれば否が応でも何かで食べていかないといけない。だから、働くことについて誰もが語り、ときには主張と主張がぶつかり合う。

私は、20代後半だが、自分はサラリーマンにはなれないと分かっている。「20代でそんなこと分かるわけないだろ」、「それはお前の甘えだ。技術も経験もないのにどうやって自分で食べていくんだ」、「自営で食べていくのは大変だよ。雇われたほうが楽だよ」という否定的なことを異口同音に言われてきた。今でもたまに言われる。

サラリーマン、雇われて働くことを経験したことがないわけではない。大学を卒業してから何回か雇われて働いた経験がある。私は人に命令されることが苦痛で苦痛で仕方がなかった。正論であろうが理不尽であろうが、耐えられなかった。「甘えている」と言われそうだが、体の状態がおかしくなったので、どうしようもない。これが自分なのだ。

社会に出て働く前から、自分には雇われて働くことは無理だろうなというのは何となくわかっていた。働いてみて予想は的中していた。

週5日働いて、休みの日は遊んで、ある程度余裕のある給料を貰うことは悪いわけではない。友人に、「雇われて働くほうが楽やん。嫌なことは少しくらい我慢すればそれで終わる」と諭されたことがあるが、損得の問題ではない。雇われて1000万円、自営で200万円のお金をもらったとする。多くの人は1000万円を選択するだろう。どうみても合理的だし賢い選択だ。

私はできない。どうしてもだ。生きるか死ぬかまで追い込まれたときは分からない。でも、絶対的貧困でない状況では200万円を選ぶ。論理的でないし合理的でもない。傍から見ればバカだろう。

私の生き方は社会というか、他者からは否定されてきたが、幸いなことに自分が大切にしている人たちからは自分の生き方は肯定されてきたし、応援してくれている。ありがたい。

雇われて働くこと、雇われず働くこと、どちらも批判されるべきではないし、自分のフィットするほうを選択すればいいと思う。合う・合わないが分かるには、適切な場所(環境)とゆっくり考えることができる時間が必要だ。なぜなら、『自分の生き方』を決めることだからだ。

事情は千差万別だが、私のように雇われて働くことができない人は一定数いる。自分の性格・人格に問題があるわけでなく、合わないだけなんだ、と理解している人は大丈夫だ。そうではなく、自分を責めている人はきついだろう。そういう人には誰でもいいから背中を押してくれ応援してくれる大人が必要だ。

応援してくれる大人がいなくても焦ることはない。まだ出会っていないだけで、いつか必ず出会う。今かもしれない、明日かもしれない、10年後かもしれない。ひょっとしたらもっと先かもしれない。頭の片隅に自分が求める「何か」を置いておけばどこかのタイミングで出会う。