百姓日記

百姓をやるために田舎で生活しています。

不安を乗り越える

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以前、僕のTumblrで書いた記事を転載する。

俺が生まれた年に村上龍はこういっている。

『私は、60を超えてマラソンを走ったり、少年時代の夢を追うといってグライダーに乗ったり、マスターズ水泳やマスターズ陸上に出場する老人たちを茶化したり嘲笑する気はまったくない。私が、年をとったらもうオシマイ、などというのはそういうことではない。身体的機能が衰えてもなお快楽は再生産されるであろうという嘘に支えられて現在の日本の価値観はある。若い人たちを含めてすべての世代が「老後」を意識している。変化が少ないためにそうならざるを得ないのである。「年をとったらもうオシマイ」というのは、そんな価値観に唾を吐きかけるためにあるのだ。年寄りになってもいろいろ楽しいことがあるよ、などと年寄りに言われて納得などをしたらもうオシマイだし、第一年寄りに失礼だと思う。年をとったらなにも楽しいことなんかないと思って日々を生きないと進化は止まってしまうのである。』

                                          「日経新聞 1986年12月21日」

 

貰えるか分からない年金を払い続け、老後が不安な俺たち。86年から変わっておらず、むしろ、「不安」は強化されている。俺たちは変化がなく、社会が衰退する中で育ってきた。バブルを知らないし、良かった時の日本を知らない。不安と閉塞感しか知らない。 

2000年に、希望の国エクソダスで、既存のシステムを拒否して、自分たちで新しいシステムをつくる10代を描いた村上龍。あれから11年が経ち、東日本大震災福島第一原発事故という超弩級のカタストロフィーを全国民が経験して、不安、閉塞感、希望の喪失、対立、少子高齢化を乗り切るための重要な局面を迎えている。もし、ここで道を誤ると立ち直るのが不可能なほどの打撃を受ける。

老人が溢れかえり、老人向けにサービスがカスタマイズされており、老後なんか楽しくないということをいうのは簡単じゃない。元気な老人をみても元気はでない。だが、「進化を止めない」ためにも、命がある限り生きて生きて、生き続けなくてはならない。(転載終)

☆☆☆☆

現在、全国の市で2番目に高い高齢化率である場所で暮らしていている。町を歩いても老人どころか人がいない。たまに歩いている人をみるとほとんど高齢者。若者は特定の場所でしかみかけない。だから、行政サービスやコミュニティの決定システムは、「老人向けにカスタマイズ」されている。小学校低学年まで医療費が無料で、子供への支援には力を入れているけど、老人が話し合い、老人が決める構図は維持・強化されている。

しかし、老人が溢れかえるなかで生きるのは案外楽しいこともある。百姓は自分で何でもするし、知らないことにチャレンジしようとする。しいたけの駒打ち、車の修理、草刈り、畑・米の手入れ、家の修繕、山の手入れ、酒つくりなどなんでもする。若者でできる人がいるだろうか。金を稼ぐ能力は身につかないが、生きる知恵は身につく。格差が広がり、経済的に没落するなかで、「好奇心をもって自分で実践やってみる姿勢」は、「元気な老人」から学べる大切なことだと思う。