百姓日記

百姓をやるために田舎で生活しています。

俺はやれる(自信)、俺はやれない(不安)

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百姓をやろうと決断する前、やれるorやれないで揺れ動いた。「俺ならやれる、今までもなんとかやってこれたじゃないか」、「いや無理だ。失敗ばかりしてきたし今度も失敗する可能性が高いだろ」と自問自答していた。結局動き出すまで1年近くを要した。1年間は思索に耽り、光と暗闇のなかを往来していた。

決断できたのはある人との出会いだった。自分の胸の中にしまっておきたいので、詳しいことは書かないが、その人との出会いがなければ決断することはできなかった。出会って、「俺はやれる」が少しだけ上回り、一歩を踏み出すことができた。

「普通の人」はやれるorやれないで常に迷うのだと思う。やれるが少し勝ったときに、決断することができるのだろう。だから、迷うことを否定することはない。迷っている状態は何かをする一歩手前まで近づいているはずだ。いや、近づいていなくても、自分の心がまっすぐな状態なのだ。

例え決断したことが社会的成功と結びつかなくてもいい。自分が納得すれば十分だ。本当にやりたいことは「自分」の中にだけあって、他のことは関係ない。でも、迷っているときは「他のこと」があるから迷う。少なくとも私はそうだった。矛盾しているけど、人間は矛盾しているからそれも良しとすればいい。

一つ迷いが消えたら、また新たな迷いがでてくる。禅問答みたいだけど、これが自分なんだ。

私たちは自尊心を肯定する教育とは違う教育で育ってきた。これからは「自分と他者の生き方は違って当たり前、あなたはあなたがやりたいことをやればいい」という教育が必要なのだと思う。そうなると、やれるorやれないを自問自答して、自分で決断することは当たり前になっていく。

ひいては、他者に寛容になり、我々の社会はより豊かになっていく。