百姓日記

百姓をやるために田舎で生活しています。

最終巻「すべての男は消耗品である」で終わった

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Ryu Murakami Collection

日本作家で一番好きなのは村上龍。彼の作品に登場する人物に救われてきた。趣味的ではなく生きるために読んでいたときもあった。

30年間続いた連載『すべての男は消耗品である』が最終巻を迎えるということで書店で買って読んだ。ガッカリした。『限りなく透明に近いブルー』『コインロッカーベイビーズ』『愛と幻想のファシズム』『共生虫』『KYOKO』『希望の国のエクソダス』『13歳のハローワーク』『半島を出よ』『歌うクジラ』年齢と時代と共に作品は変化してきたとはいえ、危機感、強烈なまでの批判・希望は変わらずマスではなく個人へボールを投げかけてきた村上龍は皆無だった。あるのは何も生み出さない郷愁と諦め。彼が大嫌いだったはずのエスタブリッシュメント、老害たちと同じようになっていた。

自分が変わったのか村上龍が変わったのか、もしくは質が落ちたのか、社会の変化に対応できないのか原因はわからない。わからないが、ただただ唾棄すべき作品にまで落ちぶれていた。カンブリア宮殿をやめたところで質の高い作品は戻ってこない。

村上春樹は歳をとっても作品の質は劣るどころかさらなる高み領域に達しているのに、龍は最悪だ。『希望の国のエクソダス』で個人的希望の必要性を訴えたのが嘘のよう。

『コインロッカーベイビーズ』のキク、ハシ、アネモネ、『愛と幻想のファシズム』の

冬二、ゼロ、フルーツの生まれ変わりをもう一度だけみたかった。本人は昔のような作品は書けないと言っていたがもう一度だけみたかったが、無理だろう。

村上龍の作品を好きで救われてきた事実は変わらないが、もう二度と彼の新作を読むことはない。

時は確実に移ろう。