百姓日記

百姓をやるために田舎で生活しています。

自立と依存

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依存先が少ない

世代間格差を語るとき、若者が高齢者によって搾取されている文脈で用いられる。貧乏な若者は少ない給料から納税して、高度成長期に資産形成をした裕福な高齢者に貢ぐのはフェアじゃない。だからもっと高齢者への分配を減らすべきだと。

若者対高齢者という対立は正しいのだろうか。確かに税の公平な分配の観点からすると正しいといえる。10年後、20年後の未来のため僕ら大人は若者への投資を促すべきだ。ただ、高齢者の中でも格差があり貧乏な高齢者はまともな社会保障を享受することができていない。民間の高級老人ホームは入居費100万もしくは1000万単位、月額10万円以上の負担を強いられる。月額の負担が安いところは安いなりのサービスしか受けられない。人間らしい最期を迎えることはできないリスクがある。

経済性だけじゃない。若者も高齢者も「居場所」がない。いや、あらゆる層で居場所がなく孤立する人が増えている。イギリスでは孤独担当大臣を創設して国民が孤立しないよう動いている。

www.huffingtonpost.jp

経済的に豊かになると人々が集団性を失い個人化していくことは各国とも共通している。他の国と実情はわからないが、僕らの社会では「みんなが一体感を感じれる」共同体はすでに失われている。「みんな」は死語と言っていい。国民的一体感が失われた反動でナショナリズムが富裕層、中間層、貧困層に関係なく高まっている。帰属先を失うと国家といった大きな何かに自分のアイデンティティを求める。国民国家は近代の概念であり幻想といっていい。大きな物語はなくなったが新しい概念はまだ登場していない。いまは過渡期であり「産みの苦しみ」だろう。

自分の生活を考えても依存先(帰属)が少ない。僕は限界集落に住んでいるわけだが、集落で集まっておはぎや飲み会をすることは一切ない。昔はあったらしいが、80歳以上ばっかりだから集まること自体が億劫になっている。小さな集落だから全員の名前と顔、性格はわかっているが、定期的に顔を合わせてコミュニケーションすることはない。仲の良い人同士は頻繁にあっているから問題ないが、ひとり暮らしで外に出ず何をしているのかわからない高齢者は孤立している。

難しいのは生まれたときから同じメンツで生きているので、様々なわだかまりがあること。「〇〇さんの現況をどうにかしよう」といっても、昔のことを引きずっているので足が向かない。ヨソから来た自分がどうにかしようとするとコミュニティを引っ掻き回してややこしいことになるので慎重にアプローチする必要がある。

行政が主催するコミュニティや市民が主催するコミュニティは田舎でも増えているが、行く人は決まっている。もともとコミュニティ活動に参加していた人や関係者がほとんど。孤立している高齢者はそもそもコミュニティの存在自体を知らないし、知ったとしても行かない。孤立が深まった高齢者を外に連れ出すことは簡単じゃない。

コミュニティは増えていても、新しい人が行きやすい場所は少ない。若者でも同じで、ネットを上手に使って仲間を集め自分たちが快適に過ごせる場所をつくれる人はいい。ネットだけじゃなくてリアルでも自分から様々なコミュニティに参加したり、立ち上げたりする人たちは問題ない。依存したいけどどうやって依存すればいいかわからないし、依存しても受け入れてくれる場所が少ない。依存したい人は山のようにいる。自立して受け入れてくれる大人は余裕がないとできない。自分のことで精一杯な大人が多いから依存先は非常に少ないのが現状だ。

自分ならどうするか。人のまねをする

大きな国家という物語に期待しても効果はない。選挙に行って政治家たちを監視するのは大切だが今この瞬間依存先がなく苦しんでいる若者と高齢者、中高年、女性たちには無意味だ。

大事なのは自分ならどうするかだと思っている。僕には今のところ人を呼べる家がある。共同生活は苦手だけど、もし依存したい人がいれば食事と寝るところは短期間なら提供することはできる。ツイッターで電話番号を載せて話を聞いたことがある。自分のツイッターのフォロワーは少ないがそれでも連絡がきた。もし自分に経済的余裕があれば月額5万くらい払って支援する。

これらのやれること・やったことは自分のオリジナルじゃない。誰かがやっていたことを真似ただけ。ツイッターに電話番号を載せるのはいのちの電話をやっている坂口恭平をみてやってみたにすぎない。

僕のような凡人はできることよりできないことのほうが多い。斬新なアイディアも浮かばない。でも、非凡な才能をもつ人たちのまねをして学ぶことはできる。面白いことをやっている人をみつけるのはネットのおかげで昔より簡単だ。

彼らのアイディアをみて「これだったら自分にでもできそうだな、これをアレンジしてみたらできそうだな」と考えて行動する。直感で行動することは天才たちに任せればいい。凡人はしっかり考えてできそうなだと思ったときだけ動けばいいし、たまに直感で動けばいいくらいだと思う。

自立と依存は同じ

自立があって依存でき依存があって自立ができる。依存することは間違っていないし、依存ばっかすると自立できない。自立も同じだ。自立するためには依存できる場所が必要で1人で自立できる人はいない。

彼氏彼女、夫婦は典型的な自立と依存を象徴するパターン。お互いを必要として協力しあって生活をするわけだから。(そうじゃないことも往々にしてあるが)

家族は今でも有効なコミュニティだが、一旦崩れると修復が難しく逆に苦しめる。先日、高千穂で一家心中をした事件があり原因は奥さんの不倫だったそう。(犯人が自殺したため真相はわからない)もしパートナーが不倫をしたなら慰謝料をもらって別れたらいいだけの話だと思う。不倫に限らず家族関係に何らかのトラブルがあるなら一緒に生活する必要はない。

「家族は一緒にいるべきだ」「うまくいってないときこそがんばるべきだ」というのは誰かが我慢して鬱憤を溜めるだけじゃないだろうか。だいたい女性が我慢することがほとんど。家族関係が良好なときはいいが、悪化したときには家族は自分を苦しめる。最悪なときは高千穂のような形になってしまう。

自立と依存を円滑にさせるためには家族と友達と知人とネットといった複数のコミュニティを持つことがもっとも有効だろう。ただ全部をうまく活かせるのはなかなか難しい。少なくとも僕は家族などすべてのコミュニティと上手に付き合える自信はまるでない。

うまくできないなら、生きる選択肢は色々あることを知っておくだけでもいい。家族関係がうまくいってなくても生きている人はいるし、友達も知人もネットのコミュニティでうまくいってなくても生きていける。人生は多様であって一つじゃない。

人に会わなくてもネットは広大で理解できないような生き方をしている人がたくさんいる。そういう人たちをみると「ああいう人でも生きているんだからなんとかなる」と思えてくる。

Many Shadows of Green and Blue

★★★

ー余談ー

youtubeでひとり暮らしの人がひたすら飲んで食う姿に自分で字幕つける動画があって再生回数が10万回を超えている。

コメント欄をみると共感する声が数多くある。youtubeは単なる動画サイトじゃなくてSNSであり居場所なんだなと。 文字(ブログ)より動画のほうが伝わりやすいから伸びていくんだろうな。