百姓日記

百姓をやるために田舎で生活しています。

正義の味方は怖い

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人間には矛盾した二面性がある。貧しさに苦しむ人たちを助ける活動をしているかと思えば、親しい弱い人たちを蹂躙していたという話は珍しいことではない。「良い人だったのにどうしてあの人が?」というのは他者をじっくり観察したり小説を読んだことがない人なのかなと思ってしまう。絶対的に良い人はいないし悪い人もいない。

毎日、自分の住む地域のゴミ拾いをして防犯活動に励み困っているご近所さんがいれば助けになるといった行為は善とされる。社会で正しいとされることをする人たちを恐れる。彼らのやっていることは間違っていないだろうし公共の利益になっている。文句はない。正しいことをする人たちは自分が正しいことをしているという自覚が無意識にある。人助けをするのは正しいし地域のために清掃活動をするのは正しい。正しいがためにゴミを捨て地域を乱すことをする人は許さない。「ゴミを捨てるのは絶対に良くないことなのか?」「地域の和を乱すことは本当にすべて良くないのか?」という問い自体を考慮しない。

タイのバンコクでは路上にプラゴミも缶もビンも何でも捨てる。

Trash everywhere in a Bangkok street

ゴミ箱はあっても捨てることに対するマナー意識は低い。毎日大量のゴミを路上に捨てているのに街がゴミであふれかえることはない。なぜか?当たり前といえば当たり前だが誰かが掃除しているためだ。夜中の2時くらいから清掃員がゴミを回収していく。回収したあとは回収者の後ろにとりつけてある大型ブラシで路上を磨く。清掃員はゴミを捨てる人がいるから清掃員という仕事で食べていける。マナー意識が向上してゴミ箱にゴミを捨てるようになり分別をしっかりするようになれば清掃の雇用はなくなりご飯を食べられない人がでてくる。

ある事案に対して100人中99人が賛成して1人が反対したとしよう。反対した1人が自分が納得するまでこの事案をすすめることは認めないと言ったら99人は猛反発する。「もう決まっていることだ」「なぜみんなが賛成しているのにお前は反対するんだ」と。往々にして賛成派は少数である反対に回った人を排除しようとする。自分たちが賛成な理由を丁寧に説明することはない。賛成か反対かなんてどうでもよくて、みんなが賛成なことに反対して場を乱す行為が許せないのだ。だから99人が間違っていたとしても問題にはならない。あくまでその場が円滑に進むことが目的だから。

みんなが良いとする行いをする人は無邪気な正義を振り回していることに気づかない。地域のために活動することはありがたい一方、地域のためにならないことをする人にも何らかの理由があることを想像しようとしない。理想はあっても現実は理想通りにはならない。理想とする現実は本の中にあっても現実はドロドロしたものが入り混じっている。理想と現実の狭間で苦悩するのはミクロネシア諸島の少年が男になる通過儀礼と同じだ。正義に絶対的な基準はなく悪にも絶対的な悪はない。連続殺人犯が連続殺人犯になるのはcauseとfactがあるからだ。

「わるいこと」に対して強烈な石を投げて正義の味方をするのは正義の行いなのか。「わるいこと」が日々アップされているからこそ一呼吸おいて考える必要がある。物事はシンプルにみえても複雑だ。

Tenerife. Guards cleanliness

 

変身

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