百姓日記

百姓をやるために田舎で生活しています。

都市と田舎の教育格差より個人の情報格差

スポンサーリンク

有名私立中学、高校はだいたい都市部にあって親は入学させるために小学校の段階からお受験勉強をさせる。理由はシンプルで有名中学や高校に入学すれば頭のいい連中に囲まれるから将来的にいい生活を過ごせる可能性が高まるから。裕福な親ほど子どもに投資をするのは古今東西変わらない。

田舎だとお受験をさせるのはごく限られた人のみだ。基本的に中学校までは地元の公立学校に通わせる。同調圧力とかじゃなくて都市部まで長時間通学すること経済的な負担から自然と地元の学校になる。

田舎の学校のレベルは日本全国そこまで変わらない。公立学校だから文科省が示した案に沿って各教育委員会が現場の教師たちに教育方針を示す。教育委員会の差はあろうが文科省の方針から逸脱することは公立だからない。高度経済成長期のような一律な工場要員を育てる教育から個性を重視する教育に変わってきているものの、国、教育委員会、現場の教師の認識はまだまだ古い。昔の教育がいいと思っている教育者は論外として変わろうとしているがどう変わればいいのか・何を教えればいいのかわからないことで悩んでいるケースが多い。

教師を務めてきて自主退職した人、国の仕事に従事している人から話を聞いた際に変化が必要なことは一致していたからだ。彼らは個人レベルで変えようとしているが時代遅れの制度の壁、現場の古い声、やってみたものの既存の教え方より優れていなかったことで悩んでいた。社会制度は人類が失敗を繰り返しながら少しずつより良いものにしてきたから簡単に変わるのは難しい。制度が急激に変わっても人々の意識が追いついていなければ形骸化して終わってしまう。制度か人の意識が先か、制度に強制的に順応させる方法もあれば、変化を求める声が高まり制度変更するやり方どちらも有効だ。

教育について語り合う場があってそこに行く人と何もしない人とは太陽と地球くらいの距離がある。新しい概念が具現化されつつある状況で子どもに何を教えるべきなのか、また大人は自分も含め何を学ぶことが大事なのか?答えがない問題だから考えて動いてみないとわからない。自分で考えるだけだと対した知恵はないから他者から教えを請うほうが幅が広がる。幸いにもインターネットが距離をコミュニケーションの距離を縮めたお陰で田舎にいても学ぶ機会は広がっている。

都市と田舎の教育格差はあるが重要なのは自分がどういう情報を持っているかだ。都市にいても情報がなければ田舎と変わらないだろうし、田舎にいても情報を共有していれば学びの場をみつけるのは難しくない。お金がなくても学べる場所はいくらだってある。都市から田舎に移住してきた人たちは教育に関して意識が高いことが多く、安価で学べる場をつくる動きは確実に増えている。

個人の情報格差を埋めるのはその人が何を求めているのかが大事になる。いくら情報発信をしたところで興味のない人には届かない。生活が困窮しているのにもかかわらず福祉を利用しないのは、恥ずかしいから、迷惑をかけたくないから、といった心理的バリアもあろうが、困ったときの制度を知らないこともある。届きにくても公共性が高い情報は多くの人が行く場所、スーパー、コンビニ、ホームセンターにチラシを掲載すると効果は少しでも高まる。教育も同じだ。

30代になり子どもを持つ親と付き合うことも増えてきた。(自分は独身だけど)はじめての子ども、都市から移住して子育てする親、ひとり親、野球チームがつくれる子どもを持つ親と、多用な大人と話すなかで都市と田舎の格差より個人の持つ情報格差が教育に直結すると思ったので書くことにした。たいていは学校を否定するのではなく学校プラスαが必要だということ。学校は絶対にいらないという先鋭的な人はほぼいない。僕としては個人のやりたいことを尊重しやらせ、じっくり学べる場所があればなと思っている。とはいっても抽象的でどうすればいいかわかっていない。それこそじっくり機が熟すのを待てばいいのかも。

 

Learning