百姓日記

百姓をやるために田舎で生活しています。

時間、誇り、魂

スポンサーリンク

グーグルで不老不死の研究が始まっている。昔から永遠の若さと命を求めてきた。時間は止まらない。子ども時代は終わり青年期も終わり老いる。どれだけ人類が進化したとしても不老不死が達成されることはない。もし達成されたときは堕落して終わる。

昔を懐かしむことは悪いことではない。ときの流れを噛みしめることになる。今を大事にしようと思う。「このまま時が止まってほしい」と思うのは将来が不安になるからではなくこの瞬間が愛おしいから。

不老不死に興味はない。どうして権力と巨額の富を獲得すると死から解放を求めるのだろう。永遠に若くて生きて何をするのだろうか。欲望を追求してカタルシスを得て生きことは生きているといえるのだろうか。生があるから死がある。死があるから生がある。命の危険を顧みずエベレストに登るのは生と死への渇望と似ている。

「ただ生きるだけでいい」師匠ではないが、人生の重要な場面で出会った徳人は言った。今でもこの言葉は自分の中心にある。良いことがあっても悪いことがあっても真ん中にいる。常に中庸でなければただ生きることは難しい。誇りとも言えよう。ただ生きるためにはただ生きるために模索しないといけない。未熟な自分ならなおさら。理屈ではなく実践しないとわからない。自分の身の丈はどこか?自分は何をしたら気持ちいいのか、どこにいると居心地がいいのか?凡人にはやってみないとわからない。

やることがないならやることができるまで目の前のタスクや誰かに教えを請う。それが嫌ならひたすら引きこもっていればいい。何年でもいい。年齢は関係ない。40歳、50歳であろうが自らの時が来るまで引きこもっていればいい。ずっと引きこもったまま終わるかもしれないが、それも人生だ。引きこもっている最中には無ではない。己の宇宙がある。思考は無限で読書をすれば世界中どこまでも行ける。時を超えることができる。引きこもることも悪くない。

自我が芽生え意識してからは魂を汚すこと売り渡すことがないよう気をつけている。金さえあればなんでも買えてしまう。魂ですら金に売り渡すことができる。ときには命さえ交換可能。市場で全てが売買できるのは便利な半面危うさもある。情報が簡単に手に入ってしまうからこそ、大多数に流されてしまう。気づいたら自分がどこにいて何をしたいのかわからないまま終わってしまう。

個人的に魂は都会では磨けないと思っている。人類は大自然の様々な脅威に晒されて生存し、共生して遺伝子を残してきた。都会は人工的で人だけが生きやすいように設計されている。先進国でヨガや瞑想が流行るのは魂や精神面の重要性に本能的に気づいたからだろう。トレイルランニングや登山も同じだ。これからは外面ではなく内面を磨くことが重要になり評価されるようになる。10万円の服を着るより10万円を食や肉体に投資するほうに価値がある。

50年前から精神の重要性を訴え実践してきたはみ出し者たちに時代が追いついてきた。初期のニート、引きこもり、起業家といったパイオニアたちは相当辛かっただろう。起業家は経済的成功といったわかりやすい物語をマジョリティに提供できたからまだマシだっただろう。ニートや引きこもり的は「何も生産しなかった」から気味の悪い存在、怠け者、落伍者扱いされ居場所をみつけるのは容易ではなかった。

50年たち時代は彼らの思想・生き方を必要としている。過去の遺物たちは足を引っ張ろう蹴落とそうとしているが無駄だ。現実は先に進んでしまい新しいシステムの構築を求めている。

田舎でじっくりと時が来るまで小さな王国を着々とつくっていく。