百姓日記

百姓をやるために田舎で生活しています。

自分の物差し

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完璧じゃないし完璧だと自分も周りも苦しめるだけだからほどほどなんだが、物心ついてから世間の物差しではなく自分で考えたことで生きていけている。

何が好きか?何が嫌いか?何をしているときが気持ちいいか?どう生きていくか?なぜこれをやらないといけないのか?を自問自答、わからないときは教えをこいながらやっていっている。こういうことを考えると生きていくのは簡単じゃない。会社で働いていると長くことや我慢してやることについて疑問ばっか湧くし、慣習も同じ。世の中で当たり前とされることにイチイチ考えていたらキツイこと多い。自分の物差しと社会の物差しをどこで折り合いをつけるかはようやくこの歳になってできるようになってきた。できないときもあるけど、前に比べたら全然マシだ。

世の中で正しいとされることは10年もすれば変わってしまう。いや5年もすれば変わるかな。それを自分の物差しにすると振り回されてしんどい思いをする。生きていると何もせずとも外部から色々なことが襲ってくるから、自分が納得できることをしたほうがいい。

僕の場合は、仕事をガツガツして毎日過ごすよりあまり働かずに自分のペースで生きることを選択している。農業は仕事という感じがない。生計を立てるだけのお金は稼いでいるけどいくら稼ぐとか興味が湧かない。野菜をつくって売って、売れたらそれで満足してしまう。種苗費など農業を続けていくにはお金が必要なことはわかっていながらも損益には興味もてない。「肥料や資材費が〇〇円だからこれだけは返そうかな」とは思うけど、大規模農家じゃないんで返済に困ることはない。

自分の生き方と社会で求められること(仕事や稼ぐこと)が一致する人、例えば起業家なんかは尊ばれるが、一致していないとダメなやつ扱いされてしまう。「中二病」という言葉は典型例で、大人になっても「どう生きるか?」「仕事をすることは意味があるのか?」ということを考える奴は頭がおかしいとされる。個、個性の時代といいながら自分で考えた生き方をしてもあまり受け入れられない。お金と結びつけばとても評価されちゃうのが残念でならない。エコノミックアニマルと言われたころと本質は変わってない。

世の中の物差しはいい加減でデタラメだから従うことはない。評価を求める必要もない。自分で満足すればいい。外に欲求を求めすぎると謙虚さがなくなり自分がみえなくなる。外に少しだけ評価を求めながらも、自分で納得するほうがいい。自分の生き方を否定する必要もない。自己反省は近代の毒だから。

なんでも自分で決めるのはしんどいから、決められないときは適当に決めてもいいんじゃないだろうか。僕は考えるところまで考えて決められないときはコインを投げて決める。表ならうどん、裏ならそばみたいな感じで。それで成功しても失敗しても後悔はしない。自分じゃない何かに委ねることも時には大事だ。

性格的にカチカチしてしまうから意識的にゆるさをつくってバランスをとっている。百姓日記を書くのに似ている。書いて自らの頭を整理整頓している感じ。それで見ず知らずの誰かに読んでもらえるのだから嬉しい半面恥ずかしい。自分の頭をのぞかれているわけだから。

今日も季節はずれの雨と高温なので、家にこもっている。竜王戦5局羽生対広瀬があるからみますかね。

After the rain...