百姓日記

百姓をやるために田舎で生活しています。

人生の変化

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ブログは世界的に下火になっていそう。まあそうですよね。youtube,tiktokを老若男女が視聴しているのでわざわざ文字を読む人はいない。収益構造も動画のほうが稼げるわけだし。(ブロガーは死語だろう)

日本ではnoteが使われているように例外的にブログの文化は残っている。はてなブログはどうだろう。運営は惰性でやっているのだろうか。好きなコアな一部だけにコンテンツを提供するのは使命感みたいなのがないと続かない気がする。

★★

僕が久しぶりにブログを書こうと思ったのは使命感や義務感があったわけではなく、なんとなく気が向いたからだ。強いて言うなら一日雨が降って何もできないことだ。

何を書こうかと思って書いたわけではなく、人生の変化について書くことはすぐ決まった。このブログを書いたのは2014年だったので10年経つと変わったことが多い。若いときは「他人よりもよく見られたい」「優越感に浸りたい」といった自分ではなく他者との関係のなかで自分の人生が進んでいた割合が多かった。他人と比べた自分の姿は必要であり人格形成において重要だが、過度な比較は自分の器ではないものになり、苦しむことになる。

年をとるにつれ自分と他者の関係性は変わった。他者はあくまで他者であり、自分は自分の生き方しかできないことがわかってくる。頭のなかでわかるのではなく、実践を通じて経験したことでわかるので心と体の内側から理解できる。理解すると違う自分にはなれないことがわかる。そのなかでどう生きるかが重要であり、問いがわかれば後は川の流れのように進んでいく。大きな岩にぶつかってもあるべき姿に落ち着く。一瞬でどうにかなるわけじゃない。時間をかけて少しずつ変わっていき、いつのまにかその場所にいる。

もちろん変わらないこともある。怠惰な部分や本質的な性格は少しも変わってない。何が変わって何が変わってないかは大事じゃない。あくまで今の自分をとらえるために必要だけだ。

はっきりとした変化は毎日外で肉体労働をしていることだ。肩幅は大きなり、日焼けして、手は荒れて、体には疲れが常時溜まっている。外形の変化は避けられない。体は使って肉体労働をするとシンプルにきつい。達成感よりキツさのほうが勝る。現代人はジムでランニングマシーンに乗って筋トレをして、わざわざ肉体を維持しているのとは大きく違う。肉体労働をすることに何らかの意味があるわけではない。自分にとってその行為自体がたまたま向いているだけのことだ。

偉そうなことを書いているが、わからないことが圧倒的に多い。凡人だから考えられる容量はしれている。どう生きるのか?まだわかっていない。仕事をすることではなく、もっと根源的なことだ。問い自体が正しいのかどうかもわからない。答えがでるのかもわからない。わからないなりに模索している。

外は雨がやんできた。空は暗い。曇天も永遠には続かない。

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