百姓日記

百姓をやるために田舎で生活しています。

所有の変化

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物に名前を書く高齢者

都市部の高齢者は知らないが田舎の高齢者は物に名前を書く。タッパ、スコップ、水筒、弁当などなど何でもかんでも書く。60歳代はあまり書かず70歳より上の世代に多い。80歳になるとほぼ全員書く。

見栄えを考えたら超絶ダサいしタッパなんかに名前を書いてどうするんだ、誰も盗むわけないのになぜか書く。

自分の祖母に理由を聞いたことがあるが「書かないと自分の物かどうかわからなくなる。とられるかもしれない」と言っていた。自分には理解できない感覚だ。

自分なりに理由を考えると、おそらく今の年寄りたちは極貧を経験したからじゃないかという結論に至った。終戦前の日本は飢えていたし、戦後の10年間は貧しさを経験している。食に困らず物があふれるようになったのは高度経済成長以後だ。60歳の人たちの幼少期ですら1年に1回しか肉が食えていない。しかも自分たちで屠殺していた。

満足に飯を食えず欲しいものも買えないとなると、食べられれたとき・買えたときは今より希少性が高まる。タッパでも一回きりしか買えないとなると盗まれたら困る。肉も食えるときに食べないと1年後にしか食べられない。その名残から豊かになった現代でも物に名前を書くことをやめられないのだろう。幼いときの経験は年をとっても消えずに残るものだ。

僕らは所有しない

僕らは生まれているから貧しさを知らない。生まれたときから物に溢れスーパーに行けば食料が大量にあり、コンビニに行けば24時間何でも安く買えてしまう。格差が広がっているとはいえ、高齢者が経験したような絶対的飢餓はない。お金がなくなっても社会福祉が整備されている。

昔から欲しいものはなくて必要なものを必要なときだけ調達すればいいと思ってきた。壊れたら買えばいい。所有しておくほうが移動するときに邪魔になる。自分のような考えは増えてきていて何でもシェアするようになってきている。

大量消費社会はいずれ限界が来る。資源は有限だから必要なものだけをその都度調達しシェアすることは理にかなっている。

田舎にいても機械や食をシェアするようになってきていて、人がいないから何人かで共同購入して必要なときに使うシステムはメインになっている。

年寄りが物をくれるのは嬉しいが名前を書かないでほしいな。まあ笑えるからいっか!

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