百姓日記

百姓をやるために田舎で生活しています。

なすが発芽するまで、虐待は暴力装置

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まずは1週間後

播種して4日経つ。2月の厳寒期に夏野菜を育てるとなると普通に種をまいても芽は出ない。ハウスのなかで温床、もしくは温度調節機械を使って温度管理をしてトンネルをして育てるのが一般的。はじめてなすを育てたときも温床を作ってナスを播種した。

今回はハウスのなかでトンネルだけをして育つかどうか試している。誰か2月中旬の九州で同じやり方をしている人がいれば参考になるのだが、本にもネットもなかった。他の農家に聞こうにも苗は購入するのでわからない。そうなると自分でやってみるしかない。農業をやり始めて自分でやってみらないとわからないということを学んだ。本をみて本のとおりにしてもできないときはできない。長年農家をやってきた人に聞いても同じ。自分でやってみて自分のやり方をみつけるのが一番大事。

なすが発芽しなかったらこの時期には温床か機械が必要だということになる。抑えの種はあるし最悪の場合は苗を買う予定。ダメだったら次、それがダメなら次。これも農業をやって鍛錬されたところ。(落ち込むときは落ち込むけど…)

 

虐待をするのは個人の責任なのか

Wiredの記事に、”1万年前の「虐殺」は人類の戦争の起源か”とあった。

wired.jp

記事によると、ケニアのタルクというで1万年前に虐殺された遺骨が発掘され、大人21人、子ども6人の遺骨がみつかったそう。

これらの遺骨は、かつて存在した沼の浅瀬に投げ込まれたもので、殺害されたときの姿勢を1万年も維持してきた。なかには、石の武器が食い込んでいる骨もあった。鈍器で殴られ、粉砕された頭蓋骨も複数ある。妊婦も1人いた。手足を縛られ、放置されたようだ。別の女性は両膝が折れ、片足が砕け、両手を縛られていた。

 かなり衝撃的な殺し方をされている。今だったら大問題になり連日ワイドショーで報道されていることだろう。記事内では虐殺された理由について資源の奪い合いだったことが原因としている。

「ナタルクでの大虐殺は、領土、女性、子ども、土器に保存された食料など、資源を狙った襲撃の結果と考えられうる」と論文には書かれている。

理由についての賛否はさておき、1万年前から人類は虐殺をしていたのは事実。僕たちの遠い祖先が同種族に対して殺していたとなると現代の子どもの虐待は個人に責任を負わしても意味がないのではないか。 人類はDNAに暴力装置が組み込まれているのではないだろうか。有限の資源を平等に分配せず自分が困ったら独占するのは今も変わらない。国家は国民から税金を吸い上げ分配する機能はあるが、軍隊を持ち生存が脅かされたら他国へ攻撃する暴力装置も同時に持ち合わせている。国家の暴力的機能は人類がそもそも持っているものを具現化したともいえる。

10歳の女の子が父親に虐待を受け亡くなった事件はとても悲しいしニュースをみて不快になる。親がどういう生い立ちで育ち生活に不審な点はなかったのかをメディアは徹底的に追求する。親だけじゃない、学校や警察、児相の対応も批判し攻撃する。誰かの責任にしないと気がすまないが、誰かの責任にしても虐待はなくならない。

僕たちが子どもに虐待するニュースをみて不快になり被疑者を攻撃したくなるのはそのように教育されているからだ。子どもを叩いたらいけません、子どもに対して優しくしましょう、子どもは社会全体で育てましょう、親は子どもを庇護するものだ、虐待は絶対にしてはいけない。これらの規範は僕らの社会がいけないことだという共通認識があって成立する。認識させるためには同じ教育を受けさせないとできない。

虐待をなくすためにはヒューマニズムで考えてはダメだ。1万年も前から虐殺を繰り返してきた人類にはそもそも暴力性が存在しているのだから。人は誰しも虐待する可能性がある前提に立ち、「どういう状況で子どもへの暴力が発生するのか?」「どういう家庭環境にあるとリスクが高まるのか?」「虐待をした大人はどういう家庭環境で育ったのか、仕事について、社会性について」と個人の責ではなく社会問題として研究すれば子どもが虐待で死ぬことは減るのではないか。誰しも暴力性を持ち合わせているのだから特定の個人を激しく攻撃したところで何も生み出さない。

虐待について書いてきたが、1万年も前から虐殺をしているなら虐待はなくならないとニヒリスティックになるが、それとは別の問題だからね。

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