百姓日記

百姓をやるために田舎で生活しています。

ヒューマニズムより金と権限

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2012年の夏だったと思う。僕は東日本大震災の被災地を巡る旅をしていた。陸前高田、女川、大船渡、釜石、気仙沼に行った。被災後1年以上経過していたせいかボランティアの数は思ったより少なく、復興のための重機と大型トラックが多かった。

各被災地を回ってボランティアをしたわけじゃない。興味本位と自分の目で何が起こったのか知りたかったから行った。

陸前高田では仮設商店街の飲み屋で小料理のおばあさんと一晩飲み明かし、被災してどういう気持ちなのかを教えてくれた。おばあさんは酒が進んでいくにつれ家を失いお店を失い街を失った喪失感から涙が止まらなくなり「瓦礫と呼ばれるのが心底嫌だ。あれは多くの人たちの大事な物で瓦礫じゃない」と言っていたのが印象に残っている。奇跡の一本松には人が集まっていたけどあまり覚えていない。

女川では高台にある病院に女川ラジオ局があったので見学して津波ですべて流された跡地を歩いて周り、山間につくっていた復興住宅をみた。津波で流された更地をみても大津波で流されたようには感じなかった。津波以前の風景を病院のところに立てていたが実感はわかなかった。

大船渡、釜石はバスとタクシーを使って回った。ここでも朝まで現地の人と飲み明かした記憶はあるがかなり飲んでいたのでよく覚えていない…。

気仙沼はマグロの水揚げで有名なのでマグロを食べに行った。ここでも商店街でマグロとサンマの刺し身を食べて被災された人と意気投合して飲み明かした。僕のような観光客もいてボランティアで東京から来ていた人とも一緒に飲んだ。飲んだ翌日は気仙沼駅からタクシーの運ちゃんに観光案内&被災した状況を聞きながら一日を過ごした。

どこの被災地でも被災されてとても苦しい思いをされていた方たちにある質問をした。

「今一番必要とされる支援はなんでしょうか?」と。

そうするとニュアンスは違えど異口同音にこう答えた。

「お金です」

僕が想像していた通りだった。被災直後、絆が氾濫して日本中から被災地に折り鶴や古い服といった不要な物が大量に送りつけられていた。「そんなもん送っても意味ないだろ」と報道を見るたびに思っていた。

被災された人も同じで、善意は嬉しいけど折り鶴じゃ飯は食えないし古くて汚い服を送っても着れないと言っていた。

気仙沼のタクシーの運転手はもっと踏み込んで

「お金が一番必要、お金がないと飯も食えないし家も建てられない。あとこちらに権限がないと被災地のニーズを知らない人たちが決めて物事が進まない」というニュアンスのことを言っていた。

あれだけの巨大な災害だったので何かしなくちゃいけないと思う気持ちは十分に理解できる。自分が悪いわけじゃないのに普通に生活していることへ罪悪感を覚えた人はかなりいるだろう。山形に東京から観光に来ていたグループたちは、僕が被災地へ「遊びに行った」話をしたら、「遊びに行くのが申し訳なくて行きたいけど自分たちは行けないと」言っていた。

現実はヒューマニズムよりも金と権限、身も蓋もないがこれが巨大な災害が起こったときに長期的に最も必要だ。

★★

10年近く前のことを書こうと思ったのはこのツイートがきっかけ。

 

 

 引用されている人がチップの代わりに擬似小切手を使って感謝の意を表そうと書いたところ反論意見がかなり来ている。

フランスのチップ文化のことはよく知らないのでコメントしないが、擬似小切手を使ったのは賛同できない。アイディアを出したご本人は「ありがとうの代わりに使ったら嬉しいよね」と良かれと思って作ったのだろう。被災地に折り紙や古くて汚い服を送った人たちと同じで、想像力が欠如している。

被災地に最も必要なのは金と権限と同じで、チップ文化の国で働く人たちとって必要なのも金だ。何の価値もない擬似小切手やthanksをデコレーションするのは善意の押し売りだ。宮台真司的に言えば「クズのマスターベート野郎」。支援と感謝の意を表すのは似ている。必要なことを必要なときにするのが適切であって、相手が要望・望んでいないことを与えるのは侮辱になる。

想像力の欠如は無知から起因しているといっていい。何かを与えるときには善意であったとしてもよくよく考えて想像力を働かせてやらないと。誰でも間違えることはある、僕も間違えを繰り返してきて自分が想像するより誰かの感情を逆なでにしてきたと思っている。折り鶴を送った人も擬似小切手をつくった人も「良い人」であるから何か違うことで困っている人や世の中を変えるアイディアを出してくれたらおもしろいだろう。

随分長く東北行ってないから行きたいな。行ってまた東北の人たちと飲み明かしたい!

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